2005/02/19

2月18日 名古屋から浜松へ

 もう日記と呼ぶのはあきらめました。前回書いたときから、1ヶ月以上がたっています。言い訳はあります。シドニーのマーサの家で、やっとネットがつながるようになったのはよかったのですが(ブロードバンド)、その後はずっとダイアルアップ接続しかなく、それがうまくいかないまま、私のコンピュータは子どもたちのDVDモニター(旅の間中、となりのトトロを見せている)と化していたのです。

2月11日に帰国して、ダミアンたちが苦労して私のコンピュータを修復し、やっと昨日名古屋でゲットしました。さて、消えてしまった1ヶ月のことを若干書いておきましょう。

あのあと、オーストラリアでは口コミとネットコミ(なんて言葉はないか)であっという間に上映会が決まっていき、シドニーから北上しながらニューカースル、コフスハーバー、バイロンベイ、サンシャインコースト、ゴールドコースト、ブリスベンと7箇所で、『911ボーイングを捜せ』を上映し、DVDとビデオを配ってきました。

サンシャインコーストでは、パーマカルチャーを実践しながら広めているデジャーディン・ゆかりの家におじゃましました。Y2Kのときも、彼女にお世話になったのですが、家はパームウッズからユードロという隣町の山の上に引っ越されていました。そこはベランダからサンシャインコースとの海岸線が見えるすばらしいところで、パーマカルチャーはもちろん、福岡正信式の粘土団子にも挑戦している、とのことでした。

毎回のことですが、畑からの取れたて野菜だけでつくった彼女のお料理は絶品で、久しぶりに体の底からエネルギーが湧いてくるような、ご飯をいただきました。集まった人たちも、特に平和活動をしている人たちではない普通のお母さんやお父さん、パーマカルチャーを実践している仲間などで、上映会のあとはみんなが持ち寄ったご馳走を食べて、いろいろな話に花が咲きました。

ゴールドコーストでは、本当に久しぶりにアンニャ・ライトと再会し、共に母親になった苦労と喜びを分かち合いました。アンニャは、ゴールドコーストの市議会選挙にオーストラリアのみどりの党から立候補して、惜しくも第3位で敗れたばかりでした。私が訪ねたときは、ちょうど選挙戦を共に闘った仲間たちが集まって、映画を観てくれました。

熱帯林の伐採問題などを通じて日本との交流が深く、ナマケモノくらぶなどを立ち上げて大活躍のアンニャとは、もう15年以上のつきあいになります。彼女はゴールドコーストで育ったのですが、この後はタウンズビルという北の亜熱帯の海の町に移り住み、子育て(二人のお母さんになっていました)をしながら、環境活動を続けるそうです。

まもなく4歳になる女の子のパチャが、すっかり杏菜と真生と仲良くなり、その様子を見ながら「子どもはすごいねえ、国境なんてあっという間に越えているね」、と話し合いました。言葉が通じなくても、子どもたちは平気です。全身でコミュニケートし、笑い転げています。大人たちがこういうオープンな気持ちを持ち続けられたら、国と国との争いなんてなくなるだろうな、と思いました。

オーストラリアのあとは、生まれて初めてのニュージーランドへ。ソウルが本拠地のアシアナ航空はソウル経由だけれど、オーストラリアへ入って、ニュージーランドから出ることが可能な航空会社。その代わり、オーストラリアーニュージーランド間の航空券は現地調達しなくてはなりません。

ニュージーランドはアメリカの外交政策に異議を唱え、アメリカとオーストラリアと結んでいた安全保障のためのANZUS同盟からも脱退しました。国際社会でも非核・非戦を訴え、イラクへの派兵を許さなかった小国。日本国憲法を実践しているようで、うらやましい限り。どうしてそんなことが可能になったのかしら。

日本とほぼ同じ面積の国土に400万人の人が暮らしています。人間よりも羊の数のほうが多く、放牧のために山の樹がことごとく伐採されているのが、ちょっと残念。あと国内問題では、入植した白人たちが先住民のマオリ族の土地を奪ったことに起因する、アメリカやオーストラリアとも共通の問題が存在しています。

アメリカとの貿易なしには成り立たないこの小国が、どうしてそこまでの外交政策を取ることができたのか、アメリカからの圧力はないのか。会う人ごとに聞いてみました。回答はひとそれぞれでしたが、共通していたのはアメリカの圧力はもちろんある、ということ。最近はアメリカの大金持ちがニュージーランドの美しい海岸線の土地を買いあさっているのが、問題になっているとのこと。それでもニュージーランド市民は、草の根の民主主義を実現していった、というのです。たとえば、非核や非戦の決議を全国の市町村すべたが中央にあげての結果、中央政府がそれに従わざるを得なくなった、ということもその一例。それは一朝一夕に実現したのではなくて、ベトナム反戦運動を契機とする地道な平和運動の継続が、数十年の歳月をかけて結実したものなのでした。

今回はたった1週間という短い滞在期間の間に、南島のクライストチャーチ、北島のオークランドとフィティアンガの3箇所で上映会を行うことができました。準備期間は数日しかなかったのにもかかわらず、2-30名の人が集まってくれました。クライストチャーチとオークランドを企画してくれたのは、平和財団のケイト・デュース。小田まゆみさんの紹介で出会った彼女と出会うのは、4年ぶりでしょうか。イラクに派兵を許さなかっただけに、ニュージーランド市民の反戦意識は高く、アメリカの戦争と占領の違法性を誰もが認識しているばかりか、911事件にはアメリカ政府が関与している、と言い切る人までいて、こちらが驚かされました。

最後の目的地は、ソウル。いつもトランジットで寄ることの多いソウルですが、降りるのは始めて。真夏のオセアニアから、厳寒のソウルへいきなりやってきたので、寒さが身にしみました。気温差は3-40度ぐらいでしょうか。今回の滞在は、たまたま旧正月とぶつかり、お店は軒並み閉まっている状態、人々はお墓参りなどで地方へ出払っている状態。ちょうど、日本の三が日に訪問したようなものです。

ですから上映会はできなかったのですが、戦争中毒の韓国語版の翻訳者と、従軍慰安婦問題に取り組む活動家にDVDを託しました。次回はもう少し滞在期間を長くして、地方を回りたい、とくに高齢化した元慰安婦の集まるナムルの家なども訪ねたいと思いました。

さて、そして日本に帰国。空港には今回、オーストラリアへの橋渡しをしてくれたダミアンが迎えに来てくれました。私は自宅へ戻って荷造りをしなおし、そのまま東京へ。翌日の京都の会議へ出席するため。久しぶりの戻った家には3時間しかいられませんでした。

翌日は東京のホテルを6時半に出て、一路新幹線で京都へ。アジア太平洋みどりの京都会議の安全保障部会で10時から報告をしました。翌日は岡山でスマイル・オン・トゥモロー主催の上映会と講演会が二日続けてあり、そのあとは血のつながらない姉のいる大阪へ。翌日は和歌山と大阪で講演し、翌日は瀬戸、さらに名古屋、そして浜松、東京、横浜と上映会と講演が続いています。

浜松で書き始めた原稿も、今は東京で続きを書いています。東京駅で子どもたちをアコ君に預けたおかげで、一日2箇所の講演でもちっとも苦になりません。明日は第二回東京平和映画祭の打ち合わせの後、もう一度東京で上映会をして、やっと夜中過ぎに家に戻ります。まあ、こう書き出してみると、なんとめちゃくちゃハードなスケジュールなのだろう、と思うのですが、それほど疲れていないのは、本当のことを伝え、新しい理解者に出会える喜びがあるからかもしれないです。人も旅もおしゃべりも好きな私は、それを仕事にできて、本当に幸せです。

今日の横浜の集まりは、週間金曜日を応援する会・神奈川が主催だったのですが、あのジュンとネネのネネさんが来て、日本国憲法9条の歌を歌ってくれました。心に響きました。日本国憲法は風前の灯かもしれないけど、これをもし守りきることができたなら、世界中の人々と、これから生まれてくる子どもたちは、日本に感謝してくれるでしょうね。

そうそう、うれしいニュースもあります。『911 In Plane Site』を全世界で販売したいという会社との契約が決まったこと。これまではDVDやビデオは正式販売ではなく、寄付を募る形でしか普及できなかったのが、これで正々堂々と販売できるようになります。

まだ観てない方は、ぜひこれを機会にゲットして見てください。申し込みはこちらから:郵便振替00180-7-666318 ハーモニクスプロダクション

* 通信欄に作品名、DVDかビデオの別、本数を明記のこと

* 『テロリストは誰?』は送料税込みで3500円、本とのセットが4000円

『911ボーイングを捜せ』は2500円、本とのセットが3000円です。