2012/08/10

広島と長崎の原爆投下から67年目の夏

太平洋戦争の末期、もう日本のほとんどの都市は空襲で絨毯爆撃を受け、日本軍に戦う余力はありませんでした。3月10日の東京大空襲のあと、もう降伏しようとしていたのに、米国側は原爆の成果を見るまではこの戦争をやめるわけにはいきませんでした。

国家の威信(と税金)をかけたマンハッタン計画ですからね。(マンハッタン計画については、当時12歳だったアメリカ人の少年2人が創った『魔法のランプのジニー』にも描かれていて、驚きました。「原爆の投下で戦争を終わらせ、たくさんの生命を救った」と教え込まれているアメリカの少年が、よく調べたものです。)

そして1945年8月6日に広島にウラン原爆、8月9日に長崎にプルトニウム原爆が落とされたのでした。もし、日本を降伏させるためだけだったら、広島への原爆投下だけで十分だったでしょう。二つの違う種類の原爆の威力をテストする目的がありました。

その後、この原爆を生き延びた被爆者の方々にABCCが治療をしなかったことは、やっと知られるようになりましたが、人間が人間にここまで残酷なことができてしまうこと(人間と思っていなければできるのでしょうね)が恐ろしいです。
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/26276180.html

私は毎年、安房平和行進に参加して房総半島を歩いてきましたが、今年は参加できませんでした。参加できない代わりに、以下のメッセージを送らせていただきました。
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スイカの美味しい季節になり、今年も安房地域平和行進の暑い夏がやってきました。 今日ここに集い、平和のために歩くみなさまに心から敬意を表します。

1945年8月、広島にウラン爆弾、長崎にプルトニウム爆弾が落とされ、20万人以上の人々が一瞬にして尊いいのちを奪われました。

未曾有の体験を生き延びた人々は「ヒバクシャ」として苦しい人生を送りました。

どうして私たちは「核の平和利用」という言葉ににだまされて、この狭い地震列島に54基もの原発建設を許してしまったのでしょうか。

「原爆の恐ろしさを知る日本人が、どうして核に決別できなかったの」と、外国の友人が私に聞きます。

歴史をひもとけば、原発導入は日米の少数の権力者によって秘密裏に決定され、国策として推進されたことがわかります。

3・11の大地震が起きる前に、原発を止めることができなかったことを、私は悔やんでも悔やみきれません。

野田首相が内外に「福島第一原発事故の収束宣言」をしても、実際には事故は今も収束していません。1年4ヶ月以上たっても、放射性物質は海へ空へと漏れ続けています。今や放射能汚染は福島だけに留まらず、日本中の食品を汚染しています。瓦礫の焼却でまた放射性物質が拡散すれば、内部被曝の影響はどこまで広がるかわかりません。

そんな中で子育てをしなくてはならないお母さんたちは、途方に暮れているでしょう。高線量の地域で暮らさざるを得ない人々は、憲法で保障されている「健康に生きる権利」を奪われていると私は思います。

また、昨年来、海に放出された放射性物質は、米国で水揚げされたクロマグロからも検出され、今後10年で太平洋ほぼ全域に広がります。今や日本が、世界一の環境汚染国家となってしまいました。私にとって、これほど悲しいことはありません。

今こそ声を大にして言います。
「ノーモア・広島、ノーモア・長崎、ノーモア・福島、ノーモア・ヒバクシャ」、と。 

原爆と原発の悲劇を体験した日本人だからこそ、立ち上がり、つながり、日本から世界に向けてはっきりと訴えます。

「もう核兵器も原子力発電所もいらない!」、と。


ーーーー安房平和行進に寄せて 



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