2010/06/05

東京平和映画祭の記事が6月4日の読売新聞に掲載!

サンタクルーズの近くのベン・ロモンドの森の中からです。6月11日までここでNVCの合宿に参加しています。

TPFFのJPG
「たくさんの人に来てほしい」と話す所さん(左)と横山さん

今日6月4日の読売新聞(都内版、30ページ)東京平和映画祭の告知記事が女子大生の実行委員2人の顔写真入りで紹介されたことを東京平和映画祭の仲間から今教えてもらいました。やったー!!!快挙です。飛び上がるほどうれしい!

実は読売新聞と私は古いご縁があります。

今から20年前、私がまだ米銀で債券とレーダーをしているとき、中米ベリーズの熱帯雨林を守るためにガレージセールをやって、資金集めをしたことがあります。その顛末を「論点」に書かせていただいたのが読売新聞です。

雑誌への記事はそれまでも書いてきましたが、全国紙に署名原稿が掲載されたのはそれが始めてです。その記事の反響で、私は講演に呼ばれるようになりました。そして環境活動が忙しくなったので、米銀を辞めることになりました。

それからクリーンアップキャンペーンのとき、そして、私の最初の結婚式の引き出物がエコグッズだったことなども、私の生き方に興味を寄せてくれた読売新聞の女性記者が記事にしてくれました。

戦争中毒のJPG

最近では『戦争中毒』とアメリカの新聞への意見広告のことがDaily Yomiuriという英字新聞で、まるまる1面を使った大きな記事になりました。そのときも女性記者でした。

平和活動をする人の中には、「読売やサンケイは(右寄りで)だめ」、という人もいますが、活動を広げようとしている私たちにとって大切なことは、実際に記事になり、情報が多くの人に届くことです。そういう意味では、日本で最大の読者を持つ読売新聞に掲載されることは、ありがたいです。

実現のために動いてくださったすべての方に感謝です。

今、私は非暴力コミュニケーション(NVC)を学びながら「敵のイメージをなくす」「敵を持たずに生きる」という(かなり難しい)ことに挑戦しています。

相手にレッテルを張る(例えば「○×新聞は右寄り(左寄り)だからだめ」というのもレッテル)、というのはある種の暴力、とNVCでは考えます。レッテルを貼った瞬間、その相手との自由で豊かな関係は実現しにくくなるからです。

この9日間の合宿の中でたえず求められているのは、その行為がなんであれ、その行為に至ったニーズ(満たそうとしていた欲求)にフォーカスすることです。これは、かなり大変なことです。自分が失敗したとき、あるいは相手が酷いことをしたとき、その行動に至った根っこの動機、本当のニーズは何だったのかを常に探ろうとするのです。

それを知ると、とった行動の結果がたとえニーズに合致しないものであったとしても、自分や相手とつながることが可能になります。誰が正しいとか間違っているとか、後悔とか恥とかからも自由になります。

正しい/間違っているという判断や、レッテル張りから自由になったとき、私たちの関係性はもっと豊かになる、というのがNVCの重要な教えの一つです。

そういうことが本当に可能なのかどうか、迷い、戸惑いもありますが、少しずつここで学んだことを日本で実践していきたいです。

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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すばらしい。
快挙ですね。
朝日に対抗して、読売から911事件疑問の記事がシリーズではじまったらいいですね。
NVC ニーズのことが少しわかりました。

911事件真相究明運動を妨害してくる人をどうつつんだらいいんだろ。

大阪のゆみ

是々非々 さんのコメント...

若い人はご存知ないと思いますが、読売は70年代ごろ(?)まで、「どちらかといえば革新系」「やや左寄り」と"レッテル"されていた新聞です。政界自民党や米国共和党と太いパイプを持つ大幹部の意向が働いて、いわゆる「保守」現実路線に方向転換した経緯があります。

逆に言えば、国際社会の現実を見据えて軌道修正を図れる柔軟性があるからこそ、是々非々の立場から平和映画祭を取り上げる度量も持ち合わせているわけです。両極端の朝日や産経には期待できない芸当ですね。私も平和映画祭をのぞかせていただきたいのですが、同窓会や仕事であいにく行けません。成功を祈ります。

余談ですが、その大幹部に最終面接で落とされ、同業他社に入社した私です。

匿名 さんのコメント...

私には、いつか会いたいと思っている人がいる。
彼に会う日のことを毎日考える。
私は空想の世界の中で、彼と毎晩のように会う。

空想の中では、彼も私に会いたがっている。
そしてある日、彼がやってくる。

どこで会おうか。
そうだ、あの店にしよう。
あの焼き鳥を彼に是非食べさせたい。
座るのはテーブル席よりカウンターがいい。

二人は焼き鳥屋のカウンターに並んで座る。
私はいつものようにビールと焼き鳥を頼む。
乾杯をして、たわいのない話をする。
焼き鳥が出てくる。
私はおもむろに一本を手にし、焼き鳥の食べ方の見本を見せるようにして、
ガブリと食らいつく。
それをみて彼もガブリと食う。
私は目で「どう?」とたずねる。
しばらくもぐもぐと咀嚼していた彼は鼻から大きく息を吸い
目を大きく見開いて「ん~~~」とひとつ唸ってから、
「美味しい!なんて美味しいんだ!!」
私は満面の笑みでこたえる。
「喜んでくれてよかった」

二本目のビールにさしかかったころ、二人はそのタイミングを待っていたかのように
「さて」と同時に言葉をかぶらせてしまう。
彼は仕草で私に発言をゆずる。私は彼に譲り返す。
そして彼はひとつ咳払いをしてから言う。
「さて、どこから話そうか」
私はしばらく考えるふりをしてから
「最初から。お互い最初から話しましょう」
「最初から?それは一体どの最初だ?」
「まず、貴方のことを知りたい。」
「君はもう私のことは知っているじゃないか」
「そうじゃなく、貴方が生まれてから今日に至るまでの冒険が聞きたいんです」
「ぶははは」
「貴方はどんな少年だったんですか?」
彼はふいに天井を見つめ、ゆっくりと長い長いまばたきをしてから、
ゆるやかに語り始める。
生まれ育った町のこと。少年時代の夢。好きだった野球選手。
両親のこと。青春時代。初恋。初めての仕事。成功談。失敗談。
私はワクワクしながら聞き入る。
途中で小さな質問を挟みながら、
彼が生きてきた冒険物語にどんどん引き込まれていく。
人生の転機。世界観。信念。野心。
それまで知らなかった彼のことが、自分の中にしみ込んでくる。
語り終わった彼は、昔を懐かしむような遠い目のまましばらく黙る。
そして笑みを浮かべて私に言う。
「さあ、君の番だ」

私も語る。少年の頃魚釣りが好きだったこと。先生に怒られてばかりいたこと。
学校でウンコをもらしたときの話に彼は腹を抱えて笑う。
そして、今日の自分に至ったまでの物語を。
どれほど貴方に会いたかったかという思いを全て伝える。

お互い語り終わった二人は、見つめあったまましばらく黙る。
そして私は笑顔を作りながら言う。
「僕は貴方に殺されていななくてよかった。もし死んでいたら、貴方のことを何も知らないままだった」
そして彼も笑いながら言う。
「私は君を殺さなくてよかった。こんなに美味しい焼き鳥を食いそびれるところだった」

二人は目をそらさず。満面の笑みのまま見つめあう。
まるでそこだけ時間がとまってしまったかのうよに。
今日に至るまでの、長い長い道のりを一つずつ噛みしめるように。
二人とも涙がボロボロと流れていることなど気にもしないで。

「Mr.ロックフェラー。お互い過去の話は出しつくしましたね」

「そうだな。そろそろ未来について語ろうか」


20XX年、全ての戦いは終わり、世界に平和が訪れた。
そして私の戦記は、次の最後の一行で終わる。

”ありがとう神様。ありがとう友よ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。未来に栄光あれ!”




な~~~んて妄想を夢見ながら、今夜も寝ります(笑)(長い・・・汗)

東京平和映画祭楽しみにしてま~す(^0^)

fin_e さんのコメント...

今マスメディア(在京大手)が問題視されているのは、左右という政治的方向の問題ではなく、ジャーナリズムといいながら、果してジャーナリズムたり得ているのか、という極めて本質的かつ深刻な点です。レッテルと言う言葉は、議論を封殺する意思疎通の刺客です。読売は、右寄りとは思わない、あるいはそう思うがそれはそれで構わない、なぜなら~だから、との説明だけでよかったと思います。レッテルという言葉を出すことによって、今回は、きくちさんもレッテルを貼ってしまったと思います。これからきくちさんの前で、朝日や読売の批判を控えるとしたらその効果と言えましょうか。 あえて。