2008/05/10

デニス・カイン、劣化ウランの真実を語る

飛行機のキャンセルで迂回を余儀なくされ、48時間かけて来日したデニス・カインは、くたくたの体を休める暇もなく、東京学院で行われた最初の講演会に臨みました。どんなに疲れているのだろう、と心配でしたが、話し始めるとどこからかエネルギーが湧いてくるようで、予定の2時間半はあっという間に過ぎてしまいました。参加者は70名弱、スタッフをいれて80人ぐらいでしょうか。会場の教室は満席でした。

デニス・カインのJPG



彼は「自分がいま生きているのが不思議だ、イラクで自分と同じ被曝をした仲間たちの多くはもう逝ってしまった」と語り始めました。彼の不屈の精神と優しさは多くの仲間を失ってきたことからきているのかもしれません。

デニスは医者になりたくて軍隊に入ります。衛生兵として訓練を受け、1991年湾岸戦争に従軍し、45日間のイラク南部空爆(このときに340トンの劣化ウラン弾を米軍はイラク南部とクウェート国境付近にバラまいた)の後、イラクに進軍します。その大地、空気、見るもの、触れるものすべてが放射能汚染されている中を。

彼らが通った道は後に「死のハイウェイ」と呼ばれるようになるクウェートからバグダッドに向かう国道で、デニスは見てはならないものをそこで見ます。人体が半分溶けているのに、ブーツだけが残っているような異様な死体。通常兵器ではあり得ない、何かまったく新しい兵器が使われたことを数えきれない死体から知ります。原爆投下のあと黒こげの炭化してしまった死体の写真を観たことがありますが、それと同じような死体、そしてそれとも違う何かとも形容できない死体。その正体が、この湾岸戦争で初めて使われた劣化ウランだったのです(白リン弾も使われたのではないか、という人もいます)。

デニスは衛生兵としての任務をしながらその数々の死体を写真に納めました。決して報道では観ることのできない写真です。現在は、それらを見せながら劣化ウランの恐ろしさと違法性を訴えています。その彼が米軍の高貴な任務を信じていたのは最初の5、6年で、あとは疑問を持ち、やがては反戦運動に身を投じながら、米軍を2003年に除隊します。

講演会場の東京学院の JPG



わたしがカリフォルニアのパロアルトで彼に初めて出会ったのは、彼が除隊する直前でした。そのときにあげたわたしの名刺をまだ持っていて、成田空港で再会したときに見せてくれたので驚きました。デニス・カインはいつかわたしと再会したいと思い、大事にもっていた、と話してくれました。

わたしは2004年の大統領選の民主党予備選挙に立候補していたデニス・クシニッチ(同じデニスですが、こちらはオハイオ州選出の下院議員)を取材し、かつ応援するために、クシニッチを追ってカリフォルニア各地を回っていたのです。そのときクシニッチの演説する会場で、「アメリカ兵士が劣化ウランで健康を蝕まれ死んでいる。このことに米国政府は対処すべき」と発言したのが、デニス・カインでした。

クシニッチはこの訴えに耳を傾け、のちに劣化ウランに反対している著名な軍人のダグ・ロッキーを招いて、共同記者会見を米国議会でしています。ここでもクシニッチの誠実さをみました。彼のような人が米国大統領にならないことが残念でなりません。

あれから5年、多くのデニス・カインの仲間は病に倒れ、何の治療も受けずに死んでいきました。軍は劣化ウランとの関係を否定したまま。そんな中、彼は劣化ウラン被害者の救済(自分自身を含む)に奔走し、劣化ウランによる体内被曝の恐ろしさを1人でも多くの人に知ってもらうために国内外で講演活動を行っています。

そんなわけでデニス・カインは放射能の直接被曝(体外被曝とも言う)と体内被曝を経験した広島・長崎のヒバクシャたちにも大きな関心を寄せています。そして劣化ウラン兵器を含む全ての核兵器の廃絶を目指して活動を続けています。その姿勢に共感した日本の反核医師の会が今回の彼の招聘をサポートしてくれています。

今回一緒に来日したレベッカさんとはそんな活動の中で知り合いました。彼女はポリティカル・オーガナイザー(政治的な集会などを組織する人)をする中でデニス・カインに出会い、共感し、やがてパートナーとなります。健康食品店で働くパートナーを得たことが、デニス・カインの健康回復に大きく寄与しているのかもしれません。

講演会場の東京学院の JPG

レベッカ|デニス|ゆみ


デニス・カインは今日から約一ヶ月、関西、四国を中心に日本各地を講演しています。詳細は愛媛反核医師の会の曽根さんにお問合せ下さい。

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